ロドリゲス書房 >> メタプログラミングRuby: Paolo Perrotta, 角征典: 本 >> たまさか源氏別館
nanowiki 補完用の書棚です
http://www21.atwiki.jp/o-rod/
最新更新日時: 2017年09月30日 13時06分
このフォルダのページビュー: 2017843
ウェイリーは六カ国はなせて、十年かかって源氏を翻訳した。 | |
ウェイリーが源氏を訳したきっかけは大英博物館の前にあるジョージアレン&アンウィンという出版社が話をもちかけた。ウェイリーは六カ国はなせて、十年かかって源氏を翻訳した。 ラッセル、ケインズ、ヴァージニア・ウルフ…。東洋へ熱い視線を向けはじめた彼らブルムズベリー・グループの風を受け、時代の変り目に日本文学の価値を世界に問うた男の生涯。 |
「厨子(ずし)」とは、仏像などの礼拝対象を納めて屋内に安置する、屋根付きの工作物である。 | |
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%89%E8%99%AB%E5%8E%A8%E5%AD%90 「厨子」とは、仏像などの礼拝対象を納めて屋内に安置する、屋根付きの工作物である。厨子にはさまざまな形式のものがあるが、玉虫厨子は実際の仏堂建築の外観を模した造りになっており、古代の日本建築を知るうえでも重要な遺品である。 厨子は高さ233cm。檜材製だが、蓮弁を彫り出した部分のみ樟材を使用している[1]。全面漆塗装で、扉、羽目板等には朱、黄、緑の顔料を用いて、仏教的主題の絵画を描く。框(かまち)などの細長い部材には金銅透彫の金具を施してある。金銅金具の下には装飾のために玉虫の羽を入れてあるが、現在ではほとんどなくなっている。 厨子は、最下部の台脚部、その上の須弥座部、最上部の宮殿(くうでん)部からなる。宮殿とは厨子の古称である。宮殿部の屋根は入母屋造とする。宮殿部の正面と両側面は観音開きの扉とし、内壁には金銅打ち出しの千仏像が貼り付けてある。宮殿部と須弥座部の各面に絵画を表すほか、蓮弁部など各所に色漆で忍冬文(パルメット模様)、龍頭、雲などを描く。 屋上の金銅鴟尾(しび)は近世に亡失したので補ったものである。もともとの本尊仏像は、三尊仏像であったが、13世紀に盗難にあい、現在は仮に金銅観音像を納めてある。 |
世界文学としての源氏物語―サイデンステッカー氏に訊く | |
好きな日本語は「オモロナイ」というサイデンステッカー氏が源氏の英語翻訳についての苦労や、世界文学としての源氏物語について縦横無人に語り尽くす。おまけで若干谷崎と川端康成(バタヤン)登場 |
弘徽殿と藤壺の近さや、桐壺から清涼殿までの距離感などがわかります。 | |
http://genjiito.blog.eonet.jp/default/2009/05/76-baba.html 内裏のすぐ横に、聚楽第があったのです。そして、長い間、内裏があったところは野原だったということです。 そこに人々が住み着き、今のように家々が狭い路地に密集したようです。 なお、この内裏があった一角は、平安時代のイメージはまったくありません。 ただし、殿舎の位置関係と、それらが意外に近いところに建っていたことが、実際に歩くと実感できます。 これは、貴重な体験となります。ぜひ、この内裏があった地域を歩いてみてください。 弘徽殿と藤壺の近さや、桐壺から清涼殿までの距離感などがわかります。 |
桐壺:淑景舎(しげいしゃ・しげいさ)とは、平安御所の後宮の七殿五舎のうちの一つ。庭に桐が植えてあることから桐壺(きりつぼ)の別名がある。 | |
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B7%91%E6%99%AF%E8%88%8E 淑景舎(しげいしゃ・しげいさ)とは、平安御所の後宮の七殿五舎のうちの一つ。庭に桐が植えてあることから桐壺(きりつぼ)の別名がある。 内裏の北東に位置し、南北二棟がある。(北は淑景北舎) 宣耀殿の東、昭陽舎の北。 天皇の住まう清涼殿から最も遠い位置にあり、また、清涼殿に向かう際もほかの殿舎の前を通る渡り廊下を通らねばならないなど不便な配置である。そのためか、実際には天皇の女御や更衣が居住したという記録は殆どなく、むしろ摂政の直廬(じきろ、詰め所)などに利用されることが多かったようである。 淑景舎を賜っていたことで知られるのは、三条天皇の東宮時代の女御・藤原原子(藤原道隆女)。 『源氏物語』では、光源氏の母桐壺更衣の局として名高い。その後は源氏自身が宿直所とし、源氏の娘明石の姫君も東宮(今上帝)に入内した際やはり淑景舎を局とした。 |
桐壺っつーのはとにかく内裏の中にあるけど場所が遠くて隅っこってことだな | |
丁度シャケ缶にロウソクたててクリスマスという句があったがそんなかんじで、おぼつかなくてちょっとたよりなげという比喩でもって、そんな隅っこにいた下働きのぱっとでを女王相当にとりあつかったというところにこの話しのどうしようもなさがあるな。 |
帚木:はわきぎ 遠くから見れば箒を立てたように見えるが、近寄ると見えなくなるという伝説の木 | |
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%9A%E6%9C%A8 帚木(ははきぎ)は信濃国園原伏屋にある木。遠くから見れば箒を立てたように見えるが、近寄ると見えなくなるという伝説の木で、『古今和歌集』の坂上是則の歌「園原や伏屋に生ふる帚木のありとてゆけど逢はぬ君かな」で広く知られることになった。そこから、近づいても逢ってくれない人、逢えそうで逢えない人の喩えに用いられ、『源氏物語』では第二帖の巻名にもなった(この場合の逢えない相手は空蝉。「帚木 (源氏物語)」参照)。また、ははきぎの「はは」が「母」に通うことから、まだ見ぬ母の喩えにも使われた。 帚木の名を伝える檜の木は現存し、長野県阿智村園原の月見堂(伝教大師=最澄が立てた広拯院の跡地と考えられている)の裏手に根元の幹のみが残っている。 |