ロドリゲス書房 >> メタプログラミングRuby: Paolo Perrotta, 角征典: 本
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最新更新日時: 2017年09月30日 13時06分
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本を読む 「メタプログラミングRuby」 |
http://emasaka.blog65.fc2.com/blog-entry-799.html Ruby勉強中の自分にとって、へぇだったのは以下のあたり。 * incluceしたモジュールのメソッドは、インクルードするクラスの真上に入る * Ruby 1.9では、ブランクスレートとしてBasicObjectが使える(emasaka注:ブランクすぎる気はするけど) * define_methodのブロック引数はクロージャなので、フラットスコープに使える * ブロック、Proc、lambda、メソッドの違い * 多くのRubyistはクラス変数を使わずにクラスインスタンス変数を使っている(emasaka注:本当?) * オブジェクトの特異クラスのスーパークラスは、オブジェクトのクラス |
そう。やりすぎ。プログラミングが技術なら、メタプログラミングは魔術。覚えたの頃はつい使いすぎてしまう。しかし魔術だけあって、使いすぎれば自らを滅ぼす。しかも往々にして周りまで巻き添えにして。 |
http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/51507869.html 404 Blog Not Found:ネタベタオタの上には - 書評 - メタプログラミングRuby |
メタプログラミングは本書の帯*1で「魔術」と評されるほどトリッキーな技術なので、Rubyの初心者にはさすがにオススメできないが、かといって熟練者だけが読み下せるシロモノというわけでもない。 |
http://sho.tdiary.net/20100913.html メタプログラミングRuby(Paolo Perrotta/角征典) - ただのにっき(2010-09-13) |
メタプログラミングRuby - それはBooks |
http://hamasyou.com/archives/000370 本書は、Ruby の内部動作をきちんと説明した上で、メタプログラミングの説明をしてくれます。とても丁寧な説明で、少しでもプログラミングの知識があれば理解できる文章になっています。 プログラミング能力を高めるひとつの方法に、良いソースコードを読むことというのがあります。Ruby で書かれたフレームワークやライブラリのソースコードを読むと、なんでこんな動作になるんだろう?という疑問や、どうしてこんな風に書けるのだろう?という疑問が湧いてきます。 本書を読むと、そういった疑問の一つ一つが本当に紐を解くように理解できるようになります。Ruby の基礎を勉強した初級者が中級者になろうと思ったときに、ぜひ読むべき本だと思います。 |
ハインラインは「専門分化は昆虫のためにあるものだ」と言いました | |
虫はすごい速度で繁殖し、大量に死んでいきます。それは人にとって素晴らしい生き方であるとは言えません。多くの企業がそのようなやり方で人を雇っていることは残念に思っています。彼らは虫を雇いたいのです。彼らは、非常に狭いシステムに特化した専門家を雇います。従業員を採用したら、箱から出してすぐ使いたいと思っているわけです。そして使い終わったら捨てたいとも思っているのです。これは本当に残念な風潮だと思います。しかし、このやり方が長期にわたって続くとは思っていません。我々は、考え、変化し、そして必要なことを学べる人を必要としているのです。私は学校で特定のプログラミング言語を学ぶことにそれほど価値を感じていません。学校は、プログラミング言語のコンセプトを学ぶ場所なのです。新しい言語の学習は簡単です。我々は、自らを変えることのできる人間を必要としているのです。人々は、今起きていることをよく観察する必要があります。最近では、みんなが自分自身のための勉強を続けなければならないと言われていますが、それはその通りだと思います。 James Rumbaugh(UML 設計者) |
名画を見る眼 (岩波新書) | |
自然に忠実にあろうとすれば、画家は、当然のことながら多彩な自然の輝きをそのままカンヴァスの上に再現しなければならない。それは、従来の対象固有色と明暗という手段では、とうてい表現しえないものであった。そのため、モネたちは、自然の輝きを画面に定着させる独特の」技法を生み出した。「筆触分割」ないしは「色彩分割」と呼ばれるやり方がそれである。 それは、太陽の光を構成するプリズムの七色を基本とし、しかもそれらをおたがいに混ぜないで使用するという技法といちおう規定することができよう。プリズムの七色は、言うまでもなく自然の多彩な輝きを生み出すもととなるものであり、また「混ぜない」といいうことは、自然の明るさをカンヴァスの上でも保証してくれるものだったからである。 事実。印象派の画家達が早くから気づいていたように、絵の具の色は、混ぜれば混ぜるほど明るさが失われ、画面は暗くなる。七色の虹の光は、全部混ぜ合わせると明るい白色光線になるが、同じ七色の絵の具をパレットの上で混合させると、結果は黒になる。つまり、絵の具は混ぜれば混ぜるほど暗くなるので、明るい自然を再現するためには、なるべく「混ぜない」ようにしなければならない。しかし、自然の微妙な色調の変化を再現するためには、どうしても中間色、すなわち混合色が必要となる。そこで印象派の画家達は、現実には絵の具を混ぜないで、しかも見た目には混ぜたと同じ様な効果を示すやりかたとして、混合すべき色を小さなタッチ(筆触)でカンヴァスの上に並置するという方法を採用した。たとえば、赤と青のタッチを並べて置くと、離れた所から見た時、双方の色がいっしょに目にはいって紫色に見えるというわけである。こうすれば実際の絵の具は原色のまま使われているから明るさは失われず、しかも視覚的には、ふたつの色を混ぜたのと同じ効果が得られる。後にフェネシオンやシニャックのような印象派の理論家たちが強調するように、混合はパレットの上ではなくて網膜の上で行われるのである。自然を基本的な色に分解し、そのひとつひとつの要素をばらばらに並置して、全体としてまとまった効果をあげるというこの方法が「筆触分割」にほかならない。 |
砂場の歴史 | |
公園の砂場は海からやってくる。 海の無い埼玉県でもやはり砂は海からやってくる。 その昔は河の細かい砂利をもってきたこともあった。 多摩川や荒川の砂利だ。 けれどそれらは東京のビルを造るのにほとんど削られて無くなってしまった。 ある部分ではこれ以上とると川が氾濫を起こすのでもう削り取る事が できないでいる。 だから公園の砂の多くが海から来る。 海の無い埼玉県狭山市でも砂は海からやってくることがあるのだ。 砂は 貧しさの象徴だ。 砂地で食物を育てるのは 至難の業だ。 だから人は砂にセメントをまぜ、 石に換えてビルを建てることに使うようになった。 砂場にはセメントがあるわけじゃないから 立派な建造物だって作れない。 せいぜい一週間ぐらい山が残って、 いつのまにか風化してもとにもどってしまう。 19世紀にシュレーバーという人が 都市化のすすんだライプチヒで 貧しい子どもには遊ぶものがなく 裕福な子どもは外に出る事がないのを憂いていて 体操場でも作ったらどうかと市に進言していた 同じ頃フレーバーという人が ドイツで幼稚園を始める この二つの考えを融合させて カール ゲゼルというおとこが作った 「こども花壇」 これが砂場の原型だ この花壇、もともとは貧しい人を救済するために 19世紀初頭にできた 救済農園 クラインガルデンに子どもの遊び場のようなものを 付け足したものだった。 都市化でいったんおっぽりだされた貧しいおとなが 貧しい土地を分け与えてもらい 菜園をはじめ そこに子どもの遊び場も作る 大人といっしょに 土をいじり しょくぶつのそだてかたをまなぶ ゲゼルは そのような事を考えた けれども救済農園は もともと貧困者のために用意された 土地だからそれはずいぶん痩せていた。 なかなか思い通りに植物は 育たなかったろう まして子どもの菜園など さて、 ゲゼルに影響を与えたもう一人の男 フレーベルは 積み木を考えだしたことで有名だ あのまるやさんかくやしかくの シンプルな 抽象的なかたちを 子どもの遊び(教育)として考えたフレーベル このフレーベルの影響をうけて 救済菜園での子どもの遊びそのものも 半ば無駄な土いじりを エッセンスだけとりだし シンプルでちゅうしょうてきな遊び(教育) として、痩せ果てた土 そのなんばいも痩せ果て、養分も何も無い 石や貝殻を細かく砕いただけの 砂場に形を換えたということは 想像にかたくない こどもに教育をほどこすには この砂で充分だ なにも養分のある 土を使う事も無い やがて砂場は全国の ドイツの幼稚園にとりいれられ ドイツから全国の アメリカの幼稚園へ渡り そして明治時代に一部の 日本の幼稚園にやって来た あとは わたしたちの知っての通り 全国に 公園が沢山作られ砂場がつくられた こども花壇の領地(ドメイン)は これ以上無いぐらい痩せて 今の砂場になった 今となってはこの土地で 作物がとれていたなんて信じがたい 今日も公園の砂は渇いている 明日も植物が花開く事はないだろう 子どもたちはコンクリの無い「こどもセメント」 を作り、思い思いのトンネルや、ビルや、道路や 線路 都市をそこに作るのだ |
心理学〈上〉 (岩波文庫): W. ジェームズ, 今田 寛: 本 | |
ジェームズによれば、生物一般の活動には習慣の存在が認められると指摘する。ジェームズは生理学的観点から習慣を神経系における一定の経路が連続的に活性化することだと定義し、これには習慣性を伴っていると論じた。しかしながら、人間には他の生物と異なる重要な差異があり、それは多様な欲望を持つということである。したがって人間は動物にはない意識によって習慣を形成することを余儀なくされる。欲望を達成するために意識的に行動することによって脳は発達していく。つまり行動を習慣化することの意義は人格形成にまで及ぶものと考えることができる。 |
まんが夜話 ファイブスター物語 1/6 |
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ごった煮マンガ |
複製技術時代の芸術 (晶文社クラシックス) | |
ベンヤミンは写真芸術を中心とした複製の時代になって芸術の「ほんとう」や一回性が失われてしまったという。この「ほんとう」や一回性にまつわる事象のことを彼はアウラと呼び、古典的かつアウラを持っていて希少な古典的芸術作品の価値を礼拝的価値とし、複製可能な芸術作品の価値を展示的価値としてその過去と現在と未来を語る。 一般的に希少性があるのものを財というだろう。複製可能で誰の手にもいつでも手に入るとなると財の希少性は逓減していく。礼拝的価値の行き着く先は私有財であり、展示的価値が行き着く先は公共財(またはオークション)となる。上流階級による芸術的な権威が失われていく中で市場が発達し印象派を筆頭とした「天才」の時代がやってくるが、ベンヤミンは公共財となる(あるいは商品となる)芸術を淡々と受け止めその行く末を書き記して行く。 私たちは公共財としての芸術の歴史を今となっては知っているし、複製芸術の実状がベンヤミンが批判する「奴隷のためのひまつぶし」というほど低俗なものでもないことを知っている。大衆の芸術鑑賞が映像機器のモニタリング(「カアサン今度ノハ映像ノ質ガ良イネー」的な)以上のことをしているのも野生の本能でなんとなく感じとっている。 今日私たちはデジタルメディアの世界に生きている。あまりに簡単に複製可能な時代となったために、著作権者はコピーワンスなどのプロテクトを作って逆に芸術の一回性を保とうとしているがこれは宗教的な理由からではなくて逓減する財の希少性を高める方法をあの手この手で考える必要があるからだ。 そういう意味では芸術の価値付けのために今一度、複製芸術が意識されはじめたあの頃に帰ってベンヤミンの話しに耳をかたむけるのも参考になる。実際ベンヤミンの話を聞いているとかつてアウラや魔術師の時代が「ほんたうに」あった気にもなってくるし、駄法螺寸前でシャーマンだとかビックバンについて飲み屋で訊かされる事もあるだろう。あるいはコピープロテクトをはずされたゲームがP2Pで出回ってる事を知った関係者が「あ、アウラがぁ〜!」といって秋葉原の事務所の階段から転げ落ちる、という光景を実際まのあたりにする事もあるかもしれない。 複製インフラが発達する中で原理主義的に芸術のための芸術崇拝にたちもどるファシズムをベンヤミンは警戒しており、この文章の書かれた一つの大きな理由になっている。ファシズムだとか赤旗に興味がなくたって、歴史も公共性もない「古参の」バイヤーたちが恣意的に芸術作品の価格を操作できそれが古典やアウラや「ふとくていたすうのひとのためのりえき」の名の下に行われるような事があるなら他人事だって眉をひそめたくなるだろう。本来は現在生きている作家たちのための市場を訳も分からない権威や利得のために荒らされるのはごめん被りたい。イデオロギーの陰すら無い、いわゆる「科学的な」客観性にも閉口するばかりだ。 ある「気づき」としてベンヤミンのこの文章はたいせつなものだが、学園ドラマの不良の様に、俺は腐ったミカンじゃねえ、俺にできるのは映像機器のモニタリングだけでなくて、積極的な芸術の参加もできる、とベンヤミンに言ってやることはできる。文化は成熟しており今や批評の時代になった。あなたの耳も楽器であり、あなたの目も絵筆であり、記憶がそのとき作品を運ぶ小舟になる。 |
淀川長治 嫌いだったね。もしゴダールがいなかったら、もっと世の中はよくなったと思うのね | |
淀川長治 嫌いだったね。もしゴダールがいなかったら、もっと世の中はよくなったと思うのね(笑) 淀川 だから、気になることは気になる。ゴダールほど嫌いな人はいないけど、あの人には、なにか日本の文豪の泉鏡花みたいなところがある。鏡花の文学は明治・大正時代なのに、突拍子もない表現のしかたをする。場面を変えてね。外国を知らないくせに、その小説にはフランス的なところがある。ゴダールの作品にも、そんな感じがあるんだな。なにか、いっきに思い詰めていくような、一念みたいなものを感じる。そう、運命ね、この男の運命、女の運命、それを別の人のようにさめた目で見ているようなところが、ゴダールの映画にはあるね。だから、ゴダールは嫌いだけど、どこか憎めない |
時計じかけのオレンジ 最終章にあるリテラシーの継承 | |
時計じかけのオレンジ 完全版 (ハヤカワepi文庫 ハ 1-1) |
Amazon.co.jp: 暴走族のエスノグラフィー―モードの叛乱と文化の呪縛: 佐藤 郁哉: 本 | |
1年にわたる参与観察をもとに,暴走族の多彩な「遊び」の体験内容と象徴的意味,マスメディアと織りなすドラマ化の実相を生き生きと呈示し,なぜ彼らは暴走するのかを,心理‐社会‐文化的視野から解明する。みずみずしい知性と感性が躍動する一冊。 |