フィッシュ、A・H(1870-1936) Fish,A.H. |
「グレースは私の膝に座って私にキスした。私はこの子を食べてしまうことにした……あの子がどれほど蹴ったり、噛んだり、ひっかりたりしたことか! 私はあの子の首を絞めて殺し、それから小さな塊に切り分け、だいじな肉を部屋に持って帰って、料理した。小さなお尻をオーブンで焼いたら、甘くて柔らかかったよ。全部食べ切るのに九日間かかった。犯したきゃ犯せたが、やめておいた。あの子は処女のまま死んだよ」 フィッシュはグレースの肉を薄切りにして、「ニンジンとタマネギとベーコンの薄切り」と一緒に料理した。それで性的興奮を覚えたのである。 フィッシュは1910年から34年にかけて、15人から400人まで数多くの小児殺人を自白した。本当のところは誰にも分からない。彼は「いい思い出」を自分だけのものにしていたからである。レントゲン検査では彼の睾丸の中に錆びた針が多数発見された。彼はただ快感のために針を陰嚢に差しこみ、また、人間の排泄物を食べ、犠牲者の、あるいは自分自身の肛門にアルコールを含んだ綿を詰めて火を点けることに、無常の喜びを覚えていた。 フィッシュは爪の下の柔らかい肉に針を刺す実験もしていた。しかしこれは傷がひどくなりすぎる。「痛みだけならそう悪くはないんだが」と彼は言った。新聞の取材で、彼は「電気椅子に座るのは生涯最高のスリルだ」と述べている。しかもこれがおおげさでも何でもないのだ。情状酌量を訴えたウェルサム医師は次のように言及した。「この男は治癒も矯正もできないうえに、罰することもできません。歪んだ意識の中で、彼は電気椅子を究極の痛みの経験として待ちこがれているのです」 彼の刑は結果として倍化された。1936年6月16日、一回目の電気椅子刑は失敗に終わった。おそらく高眼内の29本の針がショートしたせいだろうと思われる。 フィッシュの最後の言葉は「俺はなんでここにいるんだかわからない」だった。陪審も同様に困惑していた。多数派は彼は精神異常だと結論していたが、それでもあえて彼は死ななければならないと考えていた。 |
カニバリズム cannibalism |
人肉食は、死体を相手にしているかぎりは違法ではない。カニバリズムの要素は殺人に新たなおぞましさを加えるが、被害者を消費したからといって追加の容疑がかかるわけではない。したがって、チェイス、フィッシュ、ハールマンなどは殺人で裁かれたが、一方――飛行機事故などで旅に邪魔が入り――飢え死にするよりも亡くなった同行者を食べることを選んだ人たちは、たんにタブーを犯しただけということになる。 重要なのは食料候補者が息を引き取るのを待つことである。1884年7月25日、ジョン・ダドレー船長は、喜望峰沖1600マイルを救命ボートで漂流していて飢え死にしそうになったため、キャビンボーイのリチャード・パーカーを殺して食べることにした。若者は今にも息を引きとりそうだったが、ダドレーは死神を出し抜いた。空腹を満たしたダドレーは苦境を切り抜けて陸地にたどり着いたが、殺人罪で起訴されてしまった。彼は弁護で「必要性」を申し立てたが、有罪判決が下り死刑を宣告された。最終的には、国王が彼を不憫に思い、六ヶ月で釈放してくれた。 カニバリズムは、最近までアフリカの一部地域では日常的に行われていた。1888年5月11日、探検家ジェームズ・ジェームソンは、コンゴ最深部で奴隷商人ティップ=ティプと雑談していた。カニバリズムなどすべて旅行者の作り話だ、とジェームソンが言うと、返事がわりに、ティップ=ティプの部下の一人が少女をさらってきて短剣で刺し殺した。「三人の男たちが走り寄ってきて、少女の体を切り刻みはじめた」とジェームソンは日記に書いている。「最後に首を切りはなすと、一切れ残らず分配し、男たちはそれぞれの分け前を持って川で洗った。何より驚かされたのは、少女が死ぬまで一言も発さず、抵抗もしなかったことだ」 ティップ=ティプは雑談を再開した。1960年代にCBSのコンゴ特派員だったある人物は、部族の宴会に出たとき、自然死した幼児の肉(串刺しにしてローストしたもの)を出されたと回想している。 |
あご jaws |
"金属の牙"というあだ名にもかかわらず、カザフスタン出身のニコライ・ジャマガリエフは、白色合金の特別な歯を殺人のためには使わなかった。 ニコライは1980年の(グラスノスチ)以前の人物であるため、報告は断片的だ、ニコライはアルマーアタビル工事現場で一日働いた後、ちゃんと着飾って、女性を川のそばの散歩に連れ出し、強姦し、斧で細かく切り刻み、火をたき出したのだった。このような食事はロシアでは珍しく、客に喜ばれた。しかし、そのうちニコライは注意散漫になった。台所のテーブルの上に、女性の頭部と腸をむきだしにしておいたのはやはり失敗だった。二人の客の目がそれを見てしまったのだ。 七人を殺した罪で有罪とされたニコライは精神異常と診断され、タシュケントの精神病院に送られたが、1989年に脱走した。しかし1991年8月、ウズベキスタンで逮捕されている。 |