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最新更新日時: 2010年08月24日 13時21分
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レポートを書かせてはいけないか |
http://www.tufs.ac.jp/ts/society/masaaki/kaikaku/kadai.htm まず、学生が文献や資料を突き放して論じるようにくどいほど何度も何度も要求することである。具体的には、ゼミの発表などで文献の内容を紹介させる場合、「著者によれば」との限定を常につけさせる。そうすることで、文献で展開されている議論を学生がいつのまにか自分の議論として(無批判に)展開しているという非常によく見られる現象を防止できる。(小生はこうした現象を「霊媒」と呼んでいる。他人の言葉を自分の口を通して語っているだけだからである)。やってみると分かるが、何度要求しても、いつの間にか学生は「霊媒」を演じている。自己の思想との対決なしに与えられた知識を無批判に受け入れストックするという、小学校以来12年間にわたる教育のなかで肉体化させられてきた学習法の「成果」である。 あるいは、文献や資料の内容紹介の際に必ず学生のコメントを付けさせることである。学生はコメントを付けることが非常に苦手である。教師の側で執拗に要求しないと、やるのは要約だけでコメントがまったく付かないことがしょっちゅうである。コメントを付ける場合でも、きわめて常識的な感想であることが多い。自分の視点から論じるという習慣がないのである。 さらにレポートの場合には、あるテーマについて論じさせることをせず、文献の書評をさせることである。テーマについて論じるレポートを要求すると、十中八九、学生は数冊の(場合によっては1冊の)タネ本をもとにそれを切り張りしてあたかも自分の見解であるかのように書く。またもや「霊媒」である。 書評を要求するとこうはならない。学生が自らの視点を基準にその書物を評価しなければならないからである。書評をさせるとは、いわば、一次資料を読む訓練である。文献は、そこで扱われているテーマとの関係では二次資料であるが、書評の対照となった瞬間に評者にとっては一次資料となる。文献の議論の仕方自体が検討の対象となるからである。書評を要求することによって、教師は学生が独自の主体として文献に相対せざるをえない状況に学生を追い込むことができる。 |
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